再生ボタンをすぐに押さなきゃ
とても大きい悲しみが襲う前に
待ち望んでるときに限って
いつも
いつも
悲劇は起こらないもの
時速36km「化石」
アイキャッチ画像は
手術前日の空です
本日で
手術をしてから
3年が経ちました
この3年間で
変わったことが
数えきれないほどありました
はじめに
読了時間
73分
だそうです…
長編ですね。
病気関連の記事が、結構ウケがよいので、
せっかくなので語っていきます。
結構ね、おもしろいですよ。
期待しておいてくださいね。
時系列順に、書いていきます。
(追記:めちゃくちゃ執筆に時間がかかりました。)
(最後まで読んでください。)
(ムッチャ時間かかりましたから。)
(6月から執筆しています…)
(放置していただけですが…)
断腸の思い
タイトルについて、です。
大変悩みました。
手術に関して、当時、
とても、とても、勇気づけられた曲があります。
そちらにしようか、大変迷いました。
ただ、3年前の今日を想うと、
本タイトルが合っているように感じ、
そちらを名付けました。
ということで、ifルートの曲も載せておきます。
君を見つけてしまったから
全てが眩しくて痛くて
ねえもう ねえもう
遠ざけたくて近づきたくて
愚かな願い募るくらい
つまり好きって言いたいんだけど
ねえもう 素直でいられなくて
まだ言えてない言葉
フジファブリック「君を見つけてしまったから」
曲の内容と手術等については、全く関係ありません。
ただ、大好きなフジファブリックが、
大変、タイミングよく新曲を出していたものですから、
心の支えとなり、今も、とても記憶に残っています。
私、永遠に同じ曲とか聴いちゃうタイプなんです。
ということで、本記事、どうぞ。
ことわり
まず、はじめに言っておきます。
ある程度、私自身、割り切りができている、
という前提でこの記事を書きました。
また、自身のことを、悲劇のヒロインだと思っている節も少なからずあります。
いや、だいぶですね。
加えて、このような経験を経て、
私は、“綺麗事”ですが
私は、人生というものは
“綺麗事で済まされない”と思い、
文字に起こしました。
何かを抱える人。
事情を抱える人。
彼等は、私は、病状を伝えるだけで、
たちまち、
当事者は、
“カワイソウな人”
と扱いを受けること。
小さな差別。
就職等で、(他に別として私自体に問題があるかもしれませんが…)
まさに、腫れ物を見るような視線を送られること。
腫れ物…腫瘍…
ソレ、一緒やん…
とさておき。
どこかで、誰かの引用を持ってきたように。
“癌になっていない人が
今は誰でも癌になる時代”
だと言う。
同じことです。
私には差別の意識はありませんよ、多様性を認めますよ、
と言う人が、まさに逆の行動をする。
そんな、綺麗事じゃ済まされない、と思い、書きます。
何も解決はしないけれど。
とはいえ。
起きたことを、書くだけですが…
私は。
差別なんて、なくならないと思いますよ。
だって、現に、哀れだと思うでしょう。
癌に、鬱に。
ドンマイ、と思いますでしょ。
予兆
予備知識
長くなりそうですので、まずは軽くジャブ程度に。
病気に関しての予兆。
そうですね、えっと…
物事が始まった・進んだ、きっかけとしては、2021年4月上旬でした。
が。
予兆としては、今より5、6年前。
2019年くらいでしょうかね?
この、“予兆”と言うのは。
血圧
です。
ただ、この予兆を遮る、と言うより、私自身認めたくない事実もありました。
それは、10年ほど前です。
私が高校1、2年生の頃でした。
私は大変、低血圧でした。
上が80〜90くらいで…
私は、朝起きるのが、大変苦手でしたから、
よくこの低血圧を理由にしておりました。
医学に関しては、全くの無知ですので、
まぁ高いよりかは健康だろうと思い、
血圧を測ることなんてそれ以降、
めっきりなくなりました。
異変
それから数年。
私が大学へ進学した際です。
県外の大学でした。
異変に気づいたのは、帰省したときでした。
祖父は、透析による通院の関係で、日々の血圧測定を行っていましたから、
血圧計が身近にあったんです。
そこで。
なんとなしに、私は血圧を測定しました。
結果を見ると。
200
200
オットゥ…
と、だけなりまして。
まぁ一人暮らしをしているものですから、味の濃いものを食べる、なんてこともありますから。
それほど懸念することはありませんでした。
ですが、大学の健康診断においても、なんだか血圧が高すぎる。
大学側からも、「オイオイ病院行けや」みたいな、なんでしょう、診察結果が出るワケです。
そんなことが重なり、ついに叔母より、言われたんです。
「いい加減、病院行け。」と。
うん、今考えたらアレなかったら危なかった。
セーッフ!
ということで。
いい加減、重い腰を上げますか…
となったわけです。
2021年4月
今でも覚えてますわ。
県外の病院にて。
「血圧が高いんです〜」とかけこみ、採血。
いやや〜〜〜と思いながら、結果待ち。
数日後、再度お伺いして、結果を伺う。
小さなクリニックでした。
言われたことがですね。
単純明快。
単刀直入。
「う〜ん。わからんw」
今でも、あの顔覚えてるわぁ…
クッソ…
腹立つぜ…
ということで、近くにある、少し大きめな医療センターへの紹介状をいただいたのです。
徐々に、予兆から、核心へと変わります。
発覚とそれから
ちいさな病院にて、「わかりませんw」
と言われてしまいまして、医療センターへ行くこととなった、猿。
当時は、コロナも流行っていましたから、病院というもの、抵抗がありました。
決して良い気分ではありませんでしたが、
なんだかヘンテコリンなところに来てしまったなぁ、
なんて思いつつ、検査を行いました。
繰り返し、医学につきましては無知ですので、
経験談で申し上げますが。
紹介状には、間違いなく検査結果であったり、採血結果等も含まれておりますが、やはり、治療先の病院でも確認?のためか、同様の検査を行います。
ということで、医療センター篇となります。
医療センター篇① てさぐり
繰り返しとなりますが、通院を始めました。
まずは、採血。
採血結果は、相変わらず、
「わからんですわw」
という感じです。
ただ、これを書くと、病状が漏れてしまいそうなので伏せますが、
ある数値が異様に高いことだけ、検査から知ることができました。
お医者さん曰く、とにかくよくわからない、
ナゾの数値が高くなっている、との見解。
お医者さんでワカランのであれば、アホゥな私にはわかるはずもありません。
当然でしょう。
ということで、なんだっけかな…
カリウム?のような薬を処方されたのと。
他にも、血圧をどうのこうのする薬、これを飲むと、グレープフルーツを食べてはいけない、食べるとなんかアカンことになる、といった副作用があります。
そうして、よくワカラン薬を服用しながら、1、2ヶ月ほど経過しました。
医療センター篇② 発覚
どうにも、数値の改善が見られません。
どういうことなんでしょう。と先生が言ってました。
私にもわかりません。
そこで、神の一手。
私がなんとなしに…
あの、一応、
MRI撮ってもらえませんか。
と…
これが、結果的に良い方向へと転がっていきました。
別に、特に何かを疑っていたわけではございませんが、
変な薬をたくさん飲んでも改善しなかったため。
もしかしたら、なんかあんじゃねえか、なんて不安に思い。
体の中を見てもらおうと、そういった算段です。
すると…
ありました!
これです。ペンでバッテンがついているやつ。
こいつが某を痛めつけてくるやつか…
なんて、原因がわかり、ほっとしました。
ただですね。
このできもの、腫瘍、とやらは、
あまり“できる”ものではないそうでして。
なかなか判断がつかないと。
ちなみに、これが悪性腫瘍、つまり癌ではなかった場合、
難病指定されている症状であったそうです。
加えて。
大きさとして、決して小さなものではない。ことだそうで。
恐らく、10年くらい、身体の中で育てていたのではないか、とも言われました。
要は、癌の赤ちゃんは、私が高校生になったくらいの時にはあったそうです。
ふーん。
手術よりきつかったこと
⚠️閲覧注意⚠️
少し話がそれますが…
気分を害するかもしれません
ここで、実はもうひとつしんどいことがありました。
あるきっかけにて、この時期、私、一睡も寝られない時期に陥りました。
本当に、一睡もです。
もとより、私は皮膚病。
アトピー性皮膚炎を患っています。
それが悪化しました。
↓にあるような。
カポジ水痘症というものです。
リンクをクリックするのは、覚悟のある人だけにしてください。
寝られなく、完全に免疫が落ちきりました。
その結果が、、、写真は公開できませんが、、、
左半身がブツブツに塗れ、救急車を呼び、緊急外来に行きました。
帰りは、タクシーで帰った記憶が…
こんなことがありまして、まぁ散々でした。
肩のあたりも、結構荒れてますね、こう見ると。
1週間、寝込みまして。
熱も39℃超え。
加えて、講師の仕事をしていましたから。
子どもたちに見られないように、季節外れの服を着て、授業をしました。
なんと言っても、お風呂が大変だった。
包帯とガーゼが液胞で固まり、シャワーでバリバリと溶かしながら剥がす日々。
瘡蓋がハスの葉のように集まり、ぼこぼこに開いた穴。
皮膚病持ちの人間なら、よくわかるでしょう。
気持ち悪いですよね。
それ、差別ですよ。
それが無くならないことなんて、承知の上ですが。
なんて、ちょっとした休憩を挟みましょう…
当時は、こいつに本当にお世話になりました。
いわゆる、眠剤。
眠れないので、こちらを酒で流し込んで、寝られなくなっていました。
本当に、ストレスでした。
これはまた、違う理由でしたが。
今回の癌の件とは、違うのですが。
⚠️閲覧注意⚠️
医療センター篇③ 入院と訪問者
さて。
上述の、嫌なこともありながら、とりあえず、入院が決まりました。
まず、腫瘍がなんなのか、を見つけること。
これが目的。
この時点では、癌だとは分かりませんでしたから。
こんな貧相なベッドの上にて、えっと、3、4日くらい、短い期間でした。
初の入院をしました。
その後、2回も手術前にするとは知らずに…
1回目の入院は、ずっとこんな検査してました。
なんか、ずっと採血?というか、負荷試験をしていました。
今でこそ、完全に何の検査だったか忘れちゃいました。
とにかく、暇でした。
血圧に影響を与えないよう、動かない、という条件があったのです。
動けない…
そんな日が数日だけでしたが、とても心苦しかった。
ただ、看護師さんは本当に優しかった。
今でこそ、慣れてしまい、何も思わなくなった採血さえも、当時はびびっていました。
検査前に、こんな可愛いメッセージも下さりました。
なんて、日々を過ごしていると…
ある訪問者が来たのです。
刺客、という方が正しいのか…
本来、コロナ禍にて、訪問はアウトでしたが。
こっそり忍び込んで、差し入れを持ってきてくださった先輩がいました。
そう。
この方です。
いやぁ。
ありがとうございました。
面白かったですね。
お見舞いに来てくださって、会話が盛り上がっていたところ。
看護師さんがツカツカと歩いてきて。
まさに首根っこを掴まれて
連れて行かれましたね
そして。
入院、1回目は終わりました。
転院とそれから
結局、動かずに終わった入院生活では、苦しい過程にも関わらず、
検査結果は何もわからずに終えました。
ただ、腫瘍があることは判明したということで、
どうにもここの、医療センターでは治療が不可能だということ。
その結果として、
大学病院へ転院することとなりました。
大学病院、というのも、もちろん私が通っていた大学のです。
簡単に、検査と、あったことを綴り、早く手術の項へ行きましょう。
大学病院篇 入院1回目
さて。
大学病院には、数回通い、すぐに入院する、とのことでした。
とにかく。
2回目の入院としての目的は、
結論として、手術をする前に、きちんと悪い腫瘍であるのかを判断すること。
これが目的です。
そして、以前記述したPET-CT検査(詳しくは下記記事をどうぞ)
それと、カテーテル検査、この2つを主に実施しました。
PET-CT検査は、上の記事に書いたので割愛しますが。
カテーテル検査は、股の間から管を伸ばし、
直接、該当の臓器、
つまり、腫瘍まで伸ばし、採血して、悪い成分が出ているか否かを判断すること。
これが目的でした。
またですね。
この検査、カテーテルは、数時間ほど掛かるのですが。
股の間に、結構大きめの穴を開けて、カテーテルを通します。
怖いじゃん。
でも、麻酔はないんですよ。
というより、局所麻酔でした。
全身麻酔をしてしまうと、ミス?の際に気付けないそうで、
異常を感じたら、教えて欲しいとのことで、
起きたままの施術でした。
私は、2、3時間、お医者さんと話しっぱなしで、終えました。
ずっと、ですね。
「やばい!」
「怖いっす!」
と言いながら、先生は、
「大丈夫よw」
と言いながら、また退院したら〜をしたい、
とか、
先生は他にどんな治療をしたのか、なんて聞きながら。
加えて。
そして、病室は、まさに、まさにですね。
こんなものでした。
https://www.amed.go.jp/news/release_20160616.html より
まさにこんな感じでした。
手術室・治療室は、本当にドラマみたいなんだなぁ、と感心した記憶があります。
それが、手術の際に、裏切られるとは思わずに…
そして、最終的に、施術がおわり。
先生から言われたひとこと。
「あなたがとてもビビってたから」
「今までに、一番、」
「丁寧にやりました」
だって怖いもん…
ちなみに、本当に怖いのは。
カテーテルが、股から入ってくる“感覚”。
内臓をチクりと刺して、採血する“感覚”。
身体の中を、何かが這っている“感覚”。
アレは、どうにも、忘れ難いです。
結構、わかるものでした。
未熟な私には、とても良い経験をしたと感じたのを記憶しています。
大学病院篇 その後…
その後…
実は、私。
私、というより。
退院日。
退院日の、翌々日。
教員採用試験
がありました。
先ほど、お見舞いに来てくださった、先輩が迎えにきてくださり。
急いで地元へ帰る…
っとその前に!
手前:私
腹ごしらえをして…
バーガー、美味しかったな🍔
急いで、とんで地元へ帰り、採用試験を受けました。
結果は、余裕の合格でした。
やったね!
手前味噌ですが、勉強ゼロです。
やったね!
2021年8月2日
いまだに。
いまだに。
記憶に残っています。
とても暑い夏でした。
上述の、検査結果が出ました。
癌の可能性が高いと言われました。
これは、前もこちらに書いています。
ショックや、落ち込み、というのは、正直ありませんでした。
ただ。
当時の、大学院の教授からも、暖かいメッセージをいただき。
私は、次第にカワイソウな人間になっていくことを、身に沁みて感じました。
そして、唯一。
私を“普通の”人間として扱ってくれた、Y氏。
が〜〜〜ん
と、舐めたことを言ってくれて、私は救われました。
そんな彼女の結婚式では、スピーチさせていただきますが…
さて。
私にとっては。
当時は、まだまだ未熟でしたから。
ショックはなかったものの、なんでだろう、なんで私なのだろう。
と思い。
空を見た。
驚くほど、晴れ渡っていた。
何も、世界に変わりはないのだと。
今ここで、事故をして死んでも。
何も世界は変わらないのだと。
そう悟りました。
ストレス
苦しかったこと、その2?3?
とにかく、癌である可能性が高いとわかり(実際癌でしたが)、手術をすると。
そう決まったのですが。
手術日が決まらない
結論、3ヶ月待ちました。
いまか、いまか、と。
ずっと、病院からの連絡を待っておりました。
これが、なかなかに、堪えた。
上述したように。
私ひとり、患者が死んだところで、きっと病院もどうも興味ないこと。
ただの歯車であること。
塵のひとつであること。
稀有なものであるのに関わらず、私の治療は緊急性がないのか。
そんなことを考えてしまい。負の連鎖。
ずっとイライラしていました。
とにかく、連絡が来ない、これが、とても苦しかった。
異物が身体の中にある、ということがわかっていながら、何もできない、という事実。
とても苦しいものでした。
あまり、思い出したくない。
vs がん!
手術前、私はこの曲を流しながら、病院へ向かいました。
いまだに、鮮烈に覚えていますよ。
さて、本編、行きましょう。
知らなかったことと、はじめに
さて。
個人情報は…
とりあえず隠しているはず。
このようにですね、手術の日程・スケジュールが組まれました。
これ、よく拡大すると、結構物騒なことが書いてあります。
- “お腹にチューブが入っています”
- “尿管が入っているため、トイレに行きたい感じがすることがあります”
- 朝から歩き始めます(術後、1日目)
最後は、クソ喰らえです。
まぁ、あとで書きます。
とにかく、このようなスケジュールにて、手術をすることとなりました。
Xデー 2021年11月1日 その壱
さて。
ようやく長かった記事も、メインです。
ようやく手術。
前日、10月31日より入院し。
当日、朝イチで叩き起こされ、食事制限やおへその掃除?お腹の中のものを全て出し。
準備は完了。
看護師さんによると、ちょうど正午ごろに、呼ばれるだろうと、
そんなことを言われまして、ソワソワと待っておりました。
うん。無性にソワソワしてましたね。
そして、ついに呼ばれたのです。
まさかと思いましたが、普通に手術室には、歩いていくんですね…
担架みたいなので、ガロガロと運ばれていくのを楽しみにしていましたが…
白衣?的なのを纏い、歩かされました。
クッソ…
しかも、上述した、カテーテル検査の際とは全く異なる、
失礼ですが、
ちょっと小汚い手術室
でした。
あえて参考写真は載せません。
ただ。
扉が、とても記憶に残っています。
非常に、重そうな、重苦しい?なんだか、とても重要な部屋、に入るような感じでして。
https://www.nabcosystem.co.jp/products/hermetic/natn/ より
そして、
当時の手術方式は、いわゆる、
腹腔鏡手術
でした。
これは、ナンゾかというと。
https://www.ncc.go.jp/jp/ncce/clinic/urology/070/020/020/20210518145026.html より
このようにですね。
要は、身体に3・4箇所穴を開けて。
マジックハンド的なものを、入れながら、カメラを見て、切り落とす。
こんな手術です。
最終的に、私は3箇所の穴が開きました。
ですから、開腹、腹を開く、ということはないと。
ただ、腫瘍が大きいものですから、一度、この腹腔鏡にて診てから、場合によっては切り開くと。
そんな怖いことを聞きましたが…
また。
ここで、ひとつ楽しみにしていたことがありました。
この、腹腔鏡手術には、とても面白い技術があります。
それぞ。
ダヴィンチ
https://www.keijinkai.com/teine/da_vinci/about/
こんな感じにですね。
興味がある方はお調べいただきたいのですが。
要は、ロボットが、腹腔鏡手術を行います。
https://aih-net.com/pikarada/lifestyle/4353/ より
https://www.nagoya.tokushukai.or.jp/wp/heart_peration/4626.html
こんな感じで。
ロボットがガチャガチャ動いて、身体を切り刻むそうなんです。
操作者は、上に載せた参考のように、遠隔にて、カメラとリモコンを使って操作するそうです。
どうでしょう。
かっこええやん
つまり、腹腔鏡手術の、メカ版。
ICT版、みたいな。ちげえな。
私は、生粋のメカ好き。
こんなので治療してもらいたい、と心から思いました。
ただ、手術が始まるまで、教えてもらえなかったんです。
結果は、最後に書きますね。
余談ですが。
さらに調べていたら。
なんか、日本製のもあるそうですね。
名前かっこいいな、hinotoriって。
Xデー 2021年11月1日 その弐
さて。
小汚い、手術室に入ったのち。
大変、狭い、というか、細いベッドに寝かされ。
ついに始まるそうです。
と、いえど。
書けることは非常に少ないのですが。
まずはじめに、全身麻酔を、麻酔科の先生が行ってくださりました。
これは、結構記憶に残っています。
背中に大きな管を入れ、そこから麻酔を入れるそうです。
この管は、術後、最後の最後まで抜けないそうで、大変重要な役割を務めるそう。
何がというと、術後、そこから鎮痛剤を入れることになるらしいです。
そのため、とても、位置決めが大切だそう。
麻酔科の先生は、寝転び緊張する私にとても暖かい言葉をかけてくださりました。
「大丈夫」
「大丈夫」
「大丈夫」
背中を丸め、右側を下にして、ちょうど真ん中の位置あたりに
ブスりと刺された記憶があります。
痛みは、あまりなかったような…
麻酔科の先生は、マスクとメガネ越しでしたが、とてもにこやかな笑顔で、
「大丈夫、きちんと入りました。」
と、心強く、鼓舞してくださる言葉をかけてくれた。
これは、今でも記憶にあります。
その後、次第に眠くなるよ、と言われ。
2秒後くらいに、記憶がなくなりました。
Xデー 2021年11月1日 その参 おわり
2021年11月1日 12:30ごろに始まり、
手術が終わったのは同日、19:00ごろ。
記憶が戻った時は、驚くことに。
担架で、自室に運ばれていく時でした。
麻酔が効き始めて、というよりも。
全身麻酔の感覚は、私にとっては、
電源が切れる
という感覚に近いです。
真っ暗で、何も覚えていない。
完全に、落ちる、という感じ。
記憶も感覚もない。
そして、麻酔明けは、
とても、とても眠かった。
眠かった。
ねむい。ひたすらに眠かった。
よっこらせ、と自身のベッドに移され。
すぐに眠りにつきました。
と思いきや。
おもむろに、21時ごろに起き出し。
結構、余裕に写真撮ってました。
いや、かなり痛かったですが。。。
このとき。
まず、はじめに気づいたことは。
口の中が
ズタズタに切れていたこと
私、知らなかったのですが、全身麻酔をすると、呼吸もしなくなるそうです。
ですから、人工呼吸器を、喉元まで突っ込むそうです。
https://www.iryokiki-navi.com/what/cat03/p_2013/
こんな感じでしょうか?
わかんないけど。
とやかく、口の中が切れまくって、血が出てました。
あとは、最終的に、開腹、腹を切開することはなく済んだのですが。
いわゆる、バイス、万力と呼ばれるようなもので、肋骨をこじ開けてカメラと鉗子(ハサミとかがついたやつ)を突っ込むそうなので、とにかく脇腹が痛い。
そんな感じで、手術日を終えました。
Xデーのその後
手術日、翌日。
尿道に、管が入っていました。
朝イチからそれを抜きました。
今までにない、感覚。これも、結構トップ5くらいの痛みでした。
朝食後。
いきなり。
歩かされました
7、8cmを3箇所ほど、切っただけでしたが。
10m程度を歩くのに、15分ほどかかりました。
本当に大変で、大変で。
息を荒らしながら、歩いた記憶があります。
なんなら、少し。いえ、だいぶ。
キレてました
もう無理ですって!!!
と言いながら。
いいよ〜いいよ〜じゅんちょ〜
と言われて、数回往復していました。
その後、すぐに眠りました。
痛みはキツく、ずっと背中に入った管の鎮痛剤を入れていました。
そう、この鎮痛剤というものは、スイッチがついておりまして。
自分でボタンを押して、入れるのです。
ずっと、プシュプシュしてましたね…
手術後 二日目
特に変わりなく、お風呂も入れず、生活は続く。
すごく嫌だったのが、トイレである。
便の方は、いきむと、脇腹が痛む。
尿の方は、尿管が入っていたため、膀胱が傷つき、尿をするたびに、説明がつかないのですが、尿が空回りするというか、また、染みて痛みが伴う。
日常生活が、何変わりなく、過ごせることに、本当にありがたみを感じました。
何もかもが、痛かった。
そして、私の身体には3本ほどの管が出ていました。
背中に、鎮痛剤の管。
お腹に、2本。血液を出すための管。
ポシェットのような、ジップロックのような袋を、小さなカバンとして首からかけて、そこへ血液を流していました。
これがまた、見た目が、うん。よろしくなくですね…
血が入った、ジップロックを常に持ち歩く。みたいな感じ。
そんな感じで、二日目を終えました。
一方その頃…
いぬはこんな感じだったそうです。
手術後 三日目
さて。
若い、というのは、財産なのでしょうか。
ついに、管を全て抜いたのです。
回復力がすごいですね。
身体に管がない!!!
なんて最高!
ということで、三日ぶりのお風呂。
油という油を洗い流し、脇腹と尿道は痛むものの、正直、完全に回復しました。
この頃、私はついにヤニ切れを起こしていました。
なので。
普通に、煙草吸ってました。
正直、ここで完全に回復しました。
痛かったけど。
左手に、入院の際に必要なタグがついていたため、上着で隠しながら、病院を抜け出し。
近くのコンビニで、吸ったパーラメントは、美味しかった。
https://www.tabako-sakuranbo.co.jp/goods/goods-2560.php
その前に。
病室を抜け出し。
ここで、とても記憶にあったのは。
同じく空。
まあどうにでもなれ
相変わらず。
青く、染まった空。
何ひとつ、変わらないんだな。と。
そう、心から思いました。
お腹を切り開いても何も変わらない。
私が死んでも変わらない。
あなたが死んでも、世界は変わらない。
答え合わせ
さて。
結局、ダヴィンチで手術したかどうか。
これです。
結論…
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
ダヴィンチでは
ありませんでした
無念!!!
手術終わり、並びに退院
さて。
予定、入院期間は一週間でした。
ただ、あまりにも急回復により、暇を持て余し。
入院中に見ていた、鬼滅の刃のアニメも全て見切り。
つまらなくなり、早く退院したい、と伝え、4日間で退院しました。
そして、ある友人にのみ、この事情を伝えました。
すると。
(川があったらすぐに入る友人)
なぜか遊びにきました。
痛みを抱えながら、山口県まで行きました。
(手術から一週間後)
そして、次に向かうは…
上の写真。
白色のところの前に、私が座っています。
拡大してみてください。
上の写真にも、友人がいます。
さて、どこでしょう。
探してみそ。
ということで。
完全に、日常に戻りました。
あぁ、この旅行は楽しかった。
道中。
うどんの自動販売機がありまして、食べた記憶があります。
あまり普段は気にしませんが。
術後であり、衛生的に不安でしたが。
めっちゃ
うまかった
それよりも。
普通にあるいて、街を散策すること。
他者からは何もわからない。
先日まで入院していたことさえ。
それでも、世界は回っていく。
面白い。
ちなみに…
ちなみに。
同時期、私は中学校にて、講師としても務めていました。
手術前後はお休みをいただきました。が。
手術後、早々に復帰し、授業をしていました。
生徒には、あまり悟られてはいけないので、盲腸の手術がある、と伝え、
終わった後は声出せないから、頼むよ〜
と伝えていました。
その通り。
終わったのちに、授業をしたんです。
めっちゃくちゃ
小さな声で授業しました
だって、声出ないんだもん…
階段、歩けないよ…
なんで職員室、2階にあるんだよ…
2021年12月某日
術後。
病理診断、というものがあります。
語弊を生むといけないので、引用します。
病理診断とは、
患者から採取された
細胞や組織を主に
光学顕微鏡で観察して
病変を診断することです。
病理診断は、病変の質的診断には
欠かせないものであり、
とくに腫瘍においては
最終的な確定診断となります。
このことは、治療方針の決定、
治療効果の評価、
および予後判定に
重要な意味をもちます。
https://hospinfo.tokyo-med.ac.jp/shinryo/byouri/index.html
このような感じでですね。
私の腫瘍は、取ったのちに、ホルマリン漬けにされて、切り刻まれて、検査が行われたそうです。
その結果、癌であったことが発覚しました。
フワフワした思いで、自宅へ帰った記憶があります。
一人暮らしの部屋がやけに広く感じた記憶もあります。
それでも、夜は来る。
朝は、また来る。
お前が死んでも、変わらない。
2022年3月16日
時は流れ、年が明けた。
再度、私の腫瘍は別の医療機関へ。
再検査?されたそうです。
いわゆる、セカンドオピニオン的な。
より専門性のある医療機関にて、検査が行われました。
その結果、悪性度が数十%あったことがわかりました。
それが意味することすなわち。
- 再発しやすい
- 転移しやすい
- 予後、生存率が著しく下がる
と、これだけ。
ということで、抗がん剤使用に至ったという、そうなるわけです。
そして、今に至る。というわけです。
以上、手術記、本記事を終えようと思います。
今でも、欠かさずに飲んでいます
おわりに
最後に。
何が言いたかったかと。
私を含め、多くの人間は、
化石にさえもなれない。
人の上に立って、大きな物事を成し遂げた人でさえ。
いつか忘れられる。
そんなことはどうでもいいのだ。
記憶にも記録にも残らなくても良い。
でも。
化石にさえもならない。
少なくとも、私はそう。
何者にもなれない。
あそこで、パッと消えてしまっても、誰も何も影響もなければ。
気付かれもしない。
死んだって、生きていたって一緒。
だけれども私は、治療をして生きる道を選んだ。
そして、この記事を書いている。
化石になんてなれなくても。
カワイソウなひと
そうして、私は、一般的にカワイソウな人になりました。
差別ですよね。
惨めですよね。
情けなく、みっともないですよね。
そういう目で見るなら、関わらないでいただきたいです。
あっちいけ。ばか。
私の症例は、全国的にも稀有なものです。
癌を調べると、多くの方がブログを残しています。
闘病日記として。
私の症例を調べると、殆ど、いえ、私が知る限りには、みなさん、投稿が途切れています。
あまり期待はしていません。
でも、負けられません。
こういった症状だけでなく、他の事例で同様に、
一般的に“カワイソウ”な人という“レッテル”を貼られる人もいるかもしれません。
くだらないですよね。
カワイソウ、という思いには、立場関係が存在する。
思う方が上、思われる方が下。
そうですよね。
目に見える形で、聞こえる形で、事情を知ってしまうと、皆すぐにレッテルを貼る。
結局そんなもの。
生きづらいの世の中でも、生きています。
化石にさえもなれなくても、生きています。
いつ悪化するかわからなくても、生きています。
以上です。
二週間くらい、覚えていてくれたら、
悲劇のヒロインは満足でしょう。
化石になれない、腐った存在より。
悲劇は、起こらない。