さて、優しいあの子。スピッツ氏の曲ですね。私大好きな曲です。その理由はいくつかあります。
- 兄の結婚式の入場曲であったこと
- 朝ドラ「なつぞら」のアニメーションと非常にマッチしていたこと
- サビが強気の「ルルル…」であること
です。
これは好きな順ですね。私には兄がいます。とても大事な兄です。
兄は数年前に挙式をあげたのですが、その式が、まぁ、なんと、なんと感動的だったこと…
ほんと、なんなんでしょうね。唯一の兄であるからなのか、本当に涙が止まりませんでした。
その、はじまりが、この曲だったんです。
入場曲として、これが流れて、素敵な二人が入ってくる。あの光景は、金属の焼き入れくらい頭の中の前頭葉(?)に刻まれてます。いやぁ、素敵だった。語るには2、3記事が必要になるのでヤメヤメ。私、アニキ好きなんです。
ちなみに。兄の結婚式にて、各席に似顔絵が描かれていたカードがあったんです。これすてき。
↓が私。
私は、似てないと思うのですが、知り合いには似てると言われます。
知り合いの読んでくださっている人、似ています!?教えてください。
次。
みなさん、なつぞらってご存知です?アニメーターを目指す少女の話なんですが、“優しいあの子“はそのオープニング曲なんです。そのオープニングが、こりゃまたいいんですよぉ・・・映像と音楽のマッチ、とても私好きなんです。
かりやさんという方でして、非常に好きなので、よければこちらどうぞ
Youtubeでもあがっていないかな?NHKのチャンネルであるかもしれません。
オープニングは、いわゆるアニメーションです。動物と一緒に歩んでいく姿、自然の中での生き様が描かれていまして、ただそれは、アニメなんです。言ってることが伝わるかな…アニメの中で、アニメが描かれていて、この作品の趣旨を物語っているんです。とにかく!この記事を読むのをやめて、
「なつぞら オープニング」
と調べて見てくださいよ!
次。
上述したように、NHKの朝ドラの主題歌なんです。すごく曲って大事ですよね。曲のインパクトで見るかやめるか・・・なんて展開にもなりえます。
それなのに!
サビは、草野氏が余裕をかまし、「ルルル…」なんです。一度お聴きしてくださいよ!
敬意を込めて、ギターを弾いたことがあるため、そちらものせておこ。
さて、このタイトルにしたのも、また意味があるのです。ここから目次作ろうかな。長くなりそうやな。やっぱいいや。
ちょっとばかし、最近考えたんです。優しさについて考えます。
以前、親交があったT氏という方がいて、まぁ仲が良かったんですが、その方も優しい人だったんです。いや、優しいと勘違いしていたのかな。それが正しいか。
私も同様に、優しく接していたんですが、今思うとあの行動は優しかったのかなぁなんて疑問に思ったんです。
この抽象的な話。いいっすよね。きっと読者には何にも伝わらない。フフフ。
結局何が言いたいかというと、本音を隠して、本質を潜めて、本意を消して、言いたいことを言わずに関わっていたんです。よくありますよね。
結局、私の負担も大きくなり、二度と会うことも連絡を取ることもありませんが、時折顔は思い出しますが、表面上だけの優しさ、というのがどれだけアホらしいことなのか、今になってようやっとわかったような気がするんです。
心ないやさしさって、敗北に似ているんです。
その当時は、いわば、喜んでくれるための言動であっただけに、私がそれを優しさと勘違いしていた節もあります。
極論ばかりを述べるわけではないですが、だからといって建前と本音の1・0で語るわけにもいきません。それだとデジタル人間、コンピュータマンですよね。Computer-man. 計算早そう。
正論を言うのは、間違っていないけれど、正しくはない、みたいな。伝わるかな。
人付き合いの難しさってこう言ったところだと思うんです。我々の感情にもどうしても、そういった相手を思い遣っているような、そうでないような、そして相手の顔を余計に窺ってしまうような、推し量ってしまうような、もどかしいという言葉?があっているのかわかりませんが、余分な、面倒臭い感情が孕んでいると、私は考えます。
そんでもって、私の経験則上、こういった建前で“やさしさのふり”を続けていると、相手は傲岸不遜な態度になっていきますよね。「やさしさ」に魅力を感じていたのに、いつしか消えてしまう。
優しさが当たり前に、当然になってしまう。そう接しないと、異常なまでな反発、怒りも含むような感情を向けられる。そんなこと、これまでよくありました。
またですね。全く持って違う話です。塾についての話です。
私、話をしていて、「ぜんぜん違う」と言われると、とてもかなしい気持ちになります。
どうでもいいですね。
さて。
私は、教育と言うものは公教育しか知りませんでした。ので、あまり民間の教育について知識がありませんでした。
教育ってビジネスになるんです。
ビジネスで教育をするんです。
ですから、経営者は帳簿と睨めっこ状況ですよね。
塾経営者の立場になってみてください。
売り上げを伸ばしたい。この目標。どう達成しますか?
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その1 進学実績を上げる。
これ、正攻法ですよね。その通りです。良い評判を上げればいいんです。
問題は次。
その2 塾を「キャバクラ化」する。
これなんです。講師は“やさしさ“を徹底する。成績がどうであれ、宿題をやってきたかどうであれ、とにかくやさしく、そうだね、頑張ったね、偉いよね、さすがだね、大変だね。と優しく話す。
まさにキャバクラです。あえて悪い言葉を使っています。
確かに、学習者からすれば、それほど居心地がいい場所はないでしょう。学校と進路と親と将来に板挟みにされる中、唯一赦してくれる場所なのだから。
進学実績がどうであれ、学習者は辞めたいと思いません。
その結果、経営者としてはビジネスは成功です。
これって、真の教育なのでしょうか。私にはわかりません。今はアルバイトという形で、雇用されているだけなので、私は言われた通り、最低限に苦労しない程度に、しているだけです。(ここはちょけるところではなかったか・・・)
もちろん、無理なやり方を決行して、学習が嫌いになってしまうだとか、色んな問題が起こりうることも想像できます。ただ、あからさまなやり方をする場所もたくさんあるんです。どうなんでしょうね。
私にはわかりません。
ただ、いつか書いたように、私はずっと昔から優しい人に憧れています。
その優しさとはなんなのでしょうね。
一つ、最近思い浮かんだことがあります。これも皆さんの意見があればぜひ教えてください。
私は、
私は、人のために怒れること。なのかな
これは、優しさの一つなのではないかなと思います。
怒るって、とても労力使いますよね。もしかしたらキレ散らかしている人ばかりかもしれませんが…ヒョゥェ…
私は、どちらかというと比較的、暖かく、場を崩さないような言葉を選んでいるつもりです。人のために怒る、というのは、すごくハードルが高いように思えます。それでも、人のために、身を挺して、怒る、守ることができること、行動をすることは優しさの一つだなぁなんて思いました。
人はなぜ怒るか、そう考えることもありました。自身の期待通りじゃなかったとき、ルール・法律・決まりが定められ、皆が守りながら生きる中、守らない人がいたとき、不当な扱いを受けたとき、自身の欲求が何かに妨げられて満たされないとき、あとはなんだろう。お腹減ったとき、とかでしょうか。
帰結すると、なんとなくですが、理不尽さというものが絡んでいるような気がします。
なんで私だけ。おもしろくないという思い。やむを得ない事情が理解されないとき。それらは理不尽という言葉“でも”表現できるのではないのかなぁ、と思います。
そう言った、個々の理不尽に、「踏み込んで」怒ることができること、これはまた一つの“優しさ”のカタチである、と感じます。
私は今まで、ふわふわの綿でそっと、ぐるぐる巻きに包んであげることが、優しさだと勘違いしていました。ある意味、自身がされると居心地が良いですから。
それだけじゃ、人は救えない。それだけじゃ、人は癒せない。それだけじゃ、やさしくなれない。
結局のところ、人それぞれの“優しさのカタチ”は存在している。
私は私なりの優しさのカタチを持っている。それでも今まで利用されてきた。それはどうでもいい。
けど、人は救えただろうか。そう思うと、今までの行いが正しかったのか、ぜんぜんわからなくなる、今日である。
以上。