回る空うさぎ

戯言
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「回る空うさぎ」by Orangestar

少し昔のことを思い出していました。

コロナ禍で、何もかもがめちゃくちゃになってしまった日々のこと。

もう少し昔のことを思い出していました。

震災により、すべてが失われてしまった13年前の今日のこと。


思い出したこの二つの出来事。率直に、私自身に大きな影響はありませんでした。ある種、傍観者でした。

コロナ禍。いつの間にか、すっかり落ち着いたように思えます。ただ、よく思い返すと、非常に違和感だらけの日々でした。すべてが自粛。確かに我々、大人は仕方がないこと、というよりもむしろよく頑張った方でしょう。一部例外を除いてですが。ただ、やはり今でも影響を残す、マスク文化。
顔を見ることがなくなった。特に教育従事者であれば、違和感に気づくでしょう。

(私は決して、マスク批判やコロナ批判をするわけではありません。むしろ最善の選択であったと思います。こういうとまた語弊を生みそうですが。。。ただ言いたいのは、私が感じたことだけを申し上げるのみです。)

教育現場では、給食の際以外には基本的に彼等はマスクを取りません。私共、教育従事者は彼等の本当の顔を見ることはありません。また、概ね殆どの学校でも、“黙食”という悲しい文化はなくなりつつあるものの、発達段階の重要な時期にあんな、悲惨な出来事を体験した彼等は、食事中に会話をすることはありません。ないのです。

ただ、同時に伝えたいことは、それによって救われた人もいます。顔を出したくない子。オンライン生活という多様化。
正直。顔を見たところで、人の本質なんて理解できません。見る必要もないかもしれません。ただ、やはり教壇に立っていると、彼等の笑顔を見たいと思う日はありました。
ある意味、こういった事象が技術と価値観をアップデートさせるとも感じました。非常に不謹慎ではありますが、転換期に立ち会えたとも言えます。

しかし悲しいこともあります。

それは、彼等が短い人生の中で熱を入れて取り組んできた文化的・体育的行事が、蒸発してしまったこと。積み重ねたことを“示す機会”が奪われてしまったこと。これは、私はとても悲しいと思います。私は、努力は実を結ぶとは思っていません。努力はことごとく裏切ります。ただ。その努力をしたという、あなたの想い、積み重ねを表現する機会がなくなってしまったことは、何とも心が痛いです。苦しい。これもエゴです。自己満です。だけれども、人間はエゴで自己満な生き物だとも思います。ですから、“達成感”という想いで動き出すことも、人間らしくて私は好きです。ただ、その人間らしさを表現する場がなくなってしまった彼等を見ると、やはり心にくるものがありました。
私も昔、夢中で素振りをして、ノックを受けまくっていた時期があります。決して上手くなく、チームはまとまらず、最後の大会も一回戦敗退。勝つ者がいれば、負ける者もいるでしょう。ただ、全力で挑んだあの日々は今でも記憶にある。
そんな記憶でさえも奪ってしまったできごと。いや寧ろ記憶の構築機会の喪失。ある意味上で述べたような、新たな価値文化の創造はなされたかもしれない。ただ、何かを積み重ねてきた者は何とも言えぬ気持ちに駆られただろう。文章にするとちゃちであるが、本当に悲しい。あのマウンドや、体育館、競技場での晴れ舞台の喪失。返してほしいという痛い想い。どうにもできない。帰ってこない。終わ理。無慈悲である。無念、その一言に尽きる。


同時に、災害は日時を選ばない。

先日起きた震災もそうである。

彼の、13年前の震災の時。私は中学生であった。確かに覚えている。発生タイミングは、6時間目の社会の時間である。歴史だった。私は福ちゃん(色々と苦労しているベーシスト。バンドを組んだことはない。)と話していた時である。
自転車で1時間の道のり、帰宅後。家族の顔色が青い。おかしい。おかしかった。ニュースを見る。ドラマか映画かと思う。街が、ない。なくなっていた。津波。いや、ヘドロのような塊が押し寄せてくる。瓦礫の山。テレビ各局がパニック。ガキな私は、原発なんて理解できない。とにかくまずい状況。そんな記憶。

災害は日時を選ばない。

その後のニュースにおいても、寒さに震える被災者。次第にわかってくる被害状況。一部地域の、終焉。理解が追いつかない。正直、今でもわかっていない。

生きることに、予想のつかないトラブルが多すぎる。

自分の関係する人、顔も知らない人、その後の生き方も知らない人、そういった人たちの悲しいニュースは、いつでも心が痛む。偽善者でも良い。私の想いを書きたい。とても心が痛い。どうにもできないから。時の流れるままにしかならない。なんの力にもなれない。優しい言葉や労いの言葉、弔いの言葉でさえもなんの慰めにもならない。

災害は日時を選ばない。

次の災害がいつ、何時来るのかもわからない。冒頭述べたように、この2つの事象は、失礼で不謹慎ながら、私は一傍観者に過ぎない。実際に当事者になった時、またわかることがあるのだろう。病気と同じく。あまりにも悲観したり、憐れむこと自体、違和感であるのかもしれない。ただ、私の今の気持ちは上に綴ったことである。


自然というものはあまりにも美しくて、目が開けられないことがある。

それと同時に、凶暴で恐ろしいものでもある。

この文章は非常に浅ましいことかもしれません。
ただ、やはり私は人が悲しむことに、心が痛くなります。
人が涙で星を濡らす日が来なくなってほしい。

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