日常生活の中で、
お花って意外と縁がありませんよね。
どうでしょう。私だけでしょうか。
知り合いに花屋、花小屋を経営している方がおりまして、ときたま顔を出すと、非常に素敵なフラワーアレンジメント、というのでしょうか、花飾りを見ることはあります。
花束とか、フラワーギフトとか、素敵ですよね。
贈る側も、受け取る側も、素敵です。
私は贈ることも受け取ることも、数えられるほどしか、いや贈ったことなんてないか!?
短い期間でしか咲いていられないものの、ただそこにある、というだけで、心強さや暖かさを持つ。
言葉にするとちゃちになってしまいますが、お花は、心を少しでも和やかに、そして癒す力を有しているのは事実だと思います。
意外にも身近に咲いているのに、意外にもそれらを整えて、日常生活にプラグインしないからか。
さて、どうしてお花のことをテーマにしたかというと、本日、私通院日だからです。朝から病院にて、実質立てこもり中、もとい、引きこもり中、いやさらにもとい、うーん、拘束中ですね。
特にこれと言って、何かがあったからの通院ではありませんが、いつものです。定期メンテナンス。アップデートでしょうか。
(むしろ結果としては処方された薬は増え、グレードダウンしてしまったような気持ちしますが…)
どうしても持病とは向き合わざるを得ません。
他にも病で苦しんでいる方もいる世の中です。
病院へくるとわかります。
痛みを堪えて車椅子を引く人も、まだ産まれて間もない様子であるのに、人工呼吸器を付けさせられ、担架で運ばれる幼子、薬の影響で毛髪も眉毛も抜け落ちた人。
そういった人が人間社会にいることって知っているようで知らないです。少し大きな病院へ来るとわかるかもしれません。縁がない人には知る必要もないと思いますが。
ここでは、嫌というほどお花が飾ってあります。
最初に述べたようには、ここでは、純粋にそのお花は楽しめません。
私の持病は、幸い癌であったために難病ではありませんでしたが、治療が困難であることや、母数が少ないとのことで、ある意味、私自身が研究データなのでしょう。
大学附属の研究機関である病院でしか治療ができません。
おおかた、この病気は見つかった時点で手遅れ。たいていが打つて無しの状況に陥るそうです。
ただ、幸いなことにステージ2の手前で見つかったことから、生き延びてます。
ですから、むしろ、研究機関からは引く手数多なのでは!?
この持病が厄介なことに、私の先天的な皮膚炎とも関わっておりまして、抗がん剤の副作用で炎症が悪化してしまうんです。ステロイド剤でなんとかしていますが。かゆみって本当に苦しいんですよ。
まぁそれでも、恵まれております。もっと苦しんでいる方もいます。生まれつきの方もいます。どうにもならない運命というのは、残念ながら存在します。そんなことと縁もゆかりもない方もいます。平等じゃないですね、公平ってなんなんでしょうね、そういうもんなんです。
手術をしてから、もうかれこれ3年弱ほど経ちます。
もうあの頃のように、一喜一憂したり、慣れない入院・通院生活に実はちょっとワクワク(今は完全に面倒であることと、医療費が法外な値段であること・これは稀有な病気であることに起因していますが)することはありません。
ただ、それでも、定期的な通院で通う病院で見る景色には、とても見ていられない瞬間が存在します。
待合室の、終わりの雰囲気の中で待っている間、搬送されていく知らない患者、血中成分の結果を知る瞬間、化学療法室で体毛がすべてない人たちがベッドの上でもがき苦しみ暴れているところを見るとき、それらの瞬間では、とても、お花だけの力では癒しきれません。
お花だけでなく、どんな言葉も気持ちも、モノでも、届かないから。
だからと言って、変に気を遣われることもこちらとしては大変申し訳ない気分になる。私たちは生きているのだから。
しかし、本当に生きることは不平等で不公平であると実感する。どんな生活をしていても、そんなこととは全くもって縁がない人も存在すること。これが面白い。
以前SNSで面白いポストがあった。
障害がない人が、障害を個性という
癌に罹っていない人が、
今は誰でも癌になる時代だという
いいっすねぇ、こうして差別が広がっていくんですよねぇ。よくないか。うーん。
生きるということは限りなく無意識に近い。
私は病気の発覚と、失業で改めて生について考えるように・・・
いや、逆に考えてないのか。考えないようになったのか?ワケワカラン。
残念ながら、現代の科学技術・医療技術を持っても、死から免れることはできない。
それは事実。ある意味希望であるのかもしれないが。生とは、その期間までの暇つぶしに近いものであるかもしれない。
その期間に成し得たい、うーんこの言葉は嫌いだな、ワクワクしたこと、これだな、ワクワクしたいことへの挑戦期間、それでも嫌なこととは向き合わざるを得ない日が来てしまうが。
ただ、これがまた人によって異なる考えを持つ。
昨日、登山へ行った知人の一人も、同様に癌患者です。
乳癌。ステージはもうわからない。彼女は、スピリチュアル的なものではなく、総合的に判断した上で医療的な治療は避け、民間療法をしている。
一言で言えば、適当なひとで、「人生なんとかなるから、お前は島に行け」とだけ言ってくる面白い人である。
面白すぎよなこれ。死までの、他の人よりはゆるやかに確実に示されたカウントダウンの中で、まさにそれこそ無限大でなく、“自由“に生きている。そんな生き方も存在する。(性格というか性分に合わないと困難ですよね・・・)
そういった人との関わりを経て、客観的に自分を見つめ直すと、これまで潜在的に相対的な評価を気にしている自分がいた。今でもそう。
そんなことよりも、絶対的な生き方として、僅か期間だけ咲き誇り、散っていくお花のような咲き方も素敵であるとも思う。それが誰かの救いになれるのあれば、なお素敵なこと。
こんな夢物語を書きつらっている反面、やはり将来への不安を感じます。ただ、そんな将来が来るかの保証は、特に私はマイナス要素が一つ多いため、わからないです。「将来のため」というその「将来」は今なのかもしれない。自由ではなく、無限大な選択肢から選ぶのは今なのかもしれない。お花は選べないけれど、私たちは選ぶことができる。その足を踏み出せないだけ。
むつかしいですね。
いっそ死んだ方が楽になるのかもしれない。
ただその前に、一度花小屋には顔を出そう