見方と味方が変わる
さて。
改ページなど使い。
結局、くだらない考察をしているわけですが。
閑話休題。
月並みの言葉すぎるのですが、
いつの日にか、
“ものの見方”というのが変わっていたんです。
なぜでしょう。いつからでしょう。
覚えとらん。
特に、お風呂。
浴槽に浸かる行為、これはまさに、身体を清潔にする場所だと、ずっと思っていました。
もちろん今でもそうですが。
ただ、それだけの意味を持つ場所ではないと、
そしてその意味を持つ恩恵、とやらをメインで受けたいと、
知らず知らずのうちに感じていたこと。
これが大人になることなのかもしれない。
と、最近気づいたのです。
そんなことを、共有したくなった。
*
大人になる、という事実には、どうにも。
時間経過を伴う。
知らず知らず、周りにいる味方も変わっていく。
昔、味方だったものも、シラズに敵に。
たまに、かつて敵だったものが、味方に。
これはレアケース。
同じ関係が続く、ということは、残念ながら少ない。
私だけ?
いや、そんなことはないだろう。と、信じたいが。
閑話休題。
見方が変わるから、味方も変わっていくのか。
はたまた。
味方が変わるから、見方も変わっていくのでしょうか。
とにかく。
周りにいる、それは物理的にも精神的にもであるが、
環境が、変わっていく。
その環境を見る、“見方”が変わっていく。
そして、同時にその場にいる、命持つものも、変わっていく。
それが味方が変わるということ。なのかもしれない。
と漠然と気づいた。
果て
大人になった、その先の“果て”とはなんだろうか。
小さい頃には、きっと大方の人間は、
立派な大人になれ〜と育てられているものだと、
なんとなく思っている。
そうでない人間がいるのも事実であるが。
一般的なお話なので、ご理解を。
閑話休題。
まず、“大人”になることを目指す理由は何なのだろうか。
そして、私がなぜここまでして、大人になることに、拘りを持っているのか。
後者は簡単。
自分自身が、大人になりきれていないと、そう常々感じているから。
所謂、モラトリアム的な。
調べてみてください。
問題は前者である。
大人になること、これが意味すること。
そして、その果てに待ち受けるもの。
私は、人間、大概変わらないものであると思っている。
流されやすく、会う度に変わる人もいるが。
誰のために産まれ、誰のために生き、誰のために大人になるのか。
*
私は見たことないが。
ドラえもん
のび太の月面探査記
という映画があるらしい。
その映画に纏わるポスターにて、このようなものがあった。

上手な人が
大人なだけだよ

月並みの言葉である。
と言っては失礼だが。
確かに、人間変わらないのであれば、
幾つ歳を重ねようが、真髄が変わることはない、のだろう。
ただ、生きていく中で、
叶えられないことがあることを理解し、
どうにも覆られない事実があることと、向き合わざるを得ない日が来て、
日々日常を消化することのみの生活となってしまうことを受け入れること。
そんなことを、否応なしに、受け入れざるを得なくなってしまう日が来ること。
いえ。
気づかずに受け入れていること。
これが大人になるひとつであると、そうとも思う。
ただ、冒頭の、大人の果て。
この境地に辿り着いた人。
これは、私は未だかつて見たことない。
大人、と子ども、とは、可逆性?不可逆性?
それもちっともわからない。
何を目指して、歩んでいる?
どこへ向かっていく?
夢は叶うと思っていた日もあった。
些細なきっかけや、それを自身の怠惰であることを理由に諦めることも知った。
何を思って、生まれ落ち。
育て上げられて。
生き続け、目指すべき理由もなく。
境地に辿り着くこともなく、息を引き取る。
その事実さえも考えなくなること、
これも一つの大人のカタチ。
あなたは大人でしょうか。
子どもとの違いは、何なのでしょうか。
未だにわからず、記事を終えます。
ご意見、お待ちしております。





引用
