まだ寝たくない夜はありますか。
私はよくあります。
これを読むと、さらに寝たくなくなります。
頑張って書き切ります。(ネタバレありです。)
イラスト、いっぱいあります。読まなくてもいいから、絵だけでもみてね。
今回は、漫画版をメインに考察します。
感想
“終活”
と
“終わりがあるという希望”
私はこの作品を、そんな言葉で表現したいと思います。
考察
さて、どこから書いていこうか。
あらすじは、どこかのサイトで見てください。
気になったフレーズたちと考察・感想をつらつらと。
どうなるんだろうね。私たち。
この言葉から始まり、この言葉に終わる。
彼女たちは、人のいなくなった世界で生きる。
たった2人きりで。
食料と他の生き残った人を探し、いや探していないのかもしれない。
ただ、生き残ったわずかなインフラの中で、暗闇を探す。
このインフラ構築の背景は物語では一切語られない。これがまたいい。
そして、ユーリの、無邪気な寝顔。これもまた、後ほど紹介する言葉にあるように、この圧倒的で絶望的な、終わりと向き合っている、抗いながらも向き合おうとする姿勢だと、最終巻を読むと理解できる。
記憶なんて、生きるジャマだぜ
これは、本に関する言及である。
以前のブログか何かで、僅かではあるが、記憶と記録、そしてそれらの上書きについて語った“記憶”がある。これはあくまで、人間関係だけである。
本文は、人類の叡智について述べていることである。
確かに、我々が生きていられるのは、人類史上においても歴史に名を残すような瞬間は一瞬である。
記憶なんて、いらないのかもしれない。
記録なんて、残らないのかもしれない。
そのあと、ユーリが、チトの似顔絵を描くシーン。あれはまさに、記憶を記録したものである。
彼女にとっての、不必要な記憶はなんなのだろうか。
休憩①
さて、本文を書く筆者の休憩です。これもユーの言葉ではあるけれども、意味なんかなくていい。
私の記事も、私がすることも、あなたが生きる理由も、意味なんかなくてもいい。
ただ、ふと、忘れていたように景色を見渡せば、思っていたよりも素敵な景色が待っているかもしれない。
綺麗事だけれど。偽善者だけれど。
それでも、現代の人間は、忘れていることが多すぎる。
暖かい陽の下で、のびをするだけの人生も悪くはない。
(というより、作品の考察をすることに、私のリソースがとても割かれています)
神と死後の世界
残念ながら、筆者私は無宗教である。
これまで友人にもあまり語らなかったが、イエスの文化に1年間触れたこともあるが、どうにも私自身には偶像崇拝の考えは合わない。
ただ、一つ申し上げたいのは、個々で信じるものがあることは素敵であると。否定も肯定もしない。ただ、私は無宗教であることだけ。
さて、彼女たちが、過去の建造物、いわゆる神の偶像と出会うシーンがある。
過去も、現在も。死後の世界はわからない。人は不安になる。それを解消するため、いや、安心するため、行先は明るくあってほしいと願う。真っ暗闇の世界ではないと信じたいから、明るく照らす存在として、神を祀る。理に叶っている。
何十年、何百年、何千年前から変わらない考えである。
この考えが故に、争いも起こる。
死後の世界は、誰にもわからないのに。
絶望と仲よくなろうよ
この言葉が本質であり、解答でもあり、終末でもある。
絶望とはなんだろうか?
彼女たちの絶望とは違い、私たち現代人にとっての絶望。
生と死?それは比較的、少ないものでもある気がする。(私は一度彷徨ったが。)
生きる場所の喪失?存在の否定?信頼していた人の裏切り?離職?将来の不安?
挙げきれないが、おそらく大きく分類すると2つであろう。
1つは、今現在苛まれる絶望。
2つは、将来起こりうる絶望。
彼女らの絶望は、残念ながらどちらも兼ねている。もちろん、現代を生きる人も該当する人もいるであろう。ただ、彼女らは、明日食べることの保証がない。深刻度の比較ではないが、現代とは比較対象が違う気がする。
とにかく、深刻度は非常に高い。そんな中、ユーの口からは
「もっと絶望と仲よくなろうよ」
である。
楽観的といえばそれで終いである。ただ、ある程度、覚悟をしているのかもしれない。終わりを見据えているのかもしれない。楽観的な性格の裏腹には、未来がないことを、ちーちゃんよりも、ゆるやかに、だいぶやわらかに、かなり確実に、知っているのかもしれない。
イシイの覚悟
一人でがんばってきたが、失敗してみれば、気楽なもんだな…
イシイ「少女終末旅行」
重くのしかかる。
真に努力をした人間でしか語れない言葉である。
どれだけ重くのしかかっていたミッションも、
失敗してみたら、どうってことないこと。
失敗はつきものであること。成功することは、
非常に上手い話であること。
反対に、成功することも、気楽であること。
彼女は、墜落した飛行機の中で、下層の景色をどう見ただろう。
あなたも、大きな失敗をして、後悔をして、悔やみきれない思いを抱いて、どんな景色を見ただろう。
それも、ジャマな記憶かい?
休憩②
少し休憩です。酔っ払っているからです。支離滅裂なのは、ご勘弁を。
FA(ファンアート)をあげておきましょう。
さて、一服程度に考察したいのは、3巻、墓のシーンです。
この世界では、皆、死んだのでしょうか。
この世界で生き残っているのは、彼女たち2人と、イシイ、カナザワ、程でしょうか。
戦争によって、多くの市民は死んだのでしょうか。
死を示す、“何か”がない。
死体、争いの名残。これらは見当たらない。争いは少し見受けられるか。それでも死についての描写は、この墓しかない。誰が管理しているのだろう。武器が見受けられること。間違いなく争いが存在していること。ただ、その争いからの時系列。どれほど経っているのか。場所が違うのか。わからないことばかり。
月に行こうよ
これは、この物語自体を表現する、結末を表現する重要なシーンであるかもしれない。
なぜ、彼女等が月を目指そうと思ったか。これは非常に興味深い。以下、気になったこと。
まず、月が見える環境であること。これはやはり、彼女等がいる環境は、地球の可能性が高い。違和感なく、こういった発言をしていること、四季はなくとも、冬景色が広がっていること、人が生きた形跡(カメラ類)が残っていること。
私たちも普段忘れているが、時折思い出したように夜空を見上げて、思い耽る。彼女等も作中での表現はほぼないと言っても間違いないほど、いや逆に唯一このシーンで月を見上げ、月を目指す。
そして、月を目指すと言うこと。
人間は長らく、月を目指してきた。ユーリ・ガガーリン。ご存知であろう。
「地球は青かった」
「私は周りを見渡した。しかし、
神はいなかった。」
これも、逸話というか、嘘であるらしいけども。
ユーリ、ユーリィ、表記は様々あるそうだが、これも皮肉だが同じである。月を目指し、散っていく。彼は別の事情であるが。彼女達もそうか。だが、結果論としては帰結するだろう。
純粋に彼女等が、特別な想いを抱かずに月に行こうと発言しただけなのかもしれない。
ただ、私にはどうにも気になる発言である。
次。
自律機械とさかな
生きた生物との邂逅。
人間以外は初めてである。
そして、自律機械の存在。
かつて地球はひとつの大きな生命体でしたが
人類はその営みからの独立を選びました。
自律機械「少女終末旅行」
ここで、人類の存在が確実に、明確に明らかになります。
それはそうだよね、この要塞的都市が築かれている背景には、人類の存在と技術力の結晶であるから。
ここまではいいのです。そりゃ、人類の繁栄と衰退は免れない。いつの時代も、現在進行形でも起こっているのだから。次の項です。
チト「人間なんてもういないのに?」
機械「私たちには関係ありません。
ただ 維持していくだけです。」
やりとり「少女終末旅行」
ここです。AI、機械の技術発展。これなんです。私に刺さったところ。
どれだけ発展していても、飼い主である人類が滅亡してなお、作られた存在である無機質な機械は、ただ維持していくだけの使命を与えられ、誰のためでもなくなった任務をこなしていく。
それだけ。
それだけ。
それがディストピアを体現している。
かつて、人類の食糧を支えるための、いわば糧秣を支えるための機械としての働きが、今や誰のためでもない。ただ、職務として与えられたことを遂行しているだけ、それだけ。
技術の発展の先が、これなのか。
我々人類の生活を豊かにするための叡智の結末が、これか。
さかなと自律機械の突然変異
ここも、私は書かざるを得ない。どうしても。
突然変異。遺伝子変異。昨今のコロナ事情で聞き飽きただろう。
この作品ではこう定義される。
命令の誤伝達 バグのことです。
進化の源でもありますが…
自律機械「少女終末旅行」
そうなんです。進化の源。皆さんは恐らく、コロナウイルスがアルファ株とかベータ株とか、ミノタウロスとかどうのこうの・・・とか聞いたことあるかもしれません。
私はがんです。そのがんの原因は遺伝子変異です。バグなんです。欠陥です。
同時に、進化の源でもあるんです。
麒麟の首が長くなった。長くなった個体が生き延びていった。ダーウィン、種の起源のように、ある環境に馴染むために遺伝子を変えていったのではない。
たまたま、偶発的に、ランダムに起こった変化が、ある環境に適応し、適応できなかったものが排除されていく。ゲノム的変化が起こったことによる、環境の適応という逆説的考え。これが遺伝子変異による、進化論。
さて、話を戻し、チトとユーリが出会った、自律機械が管理するさかな。この子も、遺伝子変異により、飛び跳ねるという性質を持つ。本来であれば、これが適応していき、生き延びていく世界線であったのかもしれない。ただ、人類の叡智を持ってなお、この世界線にあるのは絶望。終わり。
それと同様に自律機械の突然変異。これも、嫌に皮肉的である。
チト「バグ…それも進化の源なの?」
自律機械「破壊がもたらす次の創造を進化と呼ぶなら。」
やりとり「少女終末旅行」
作者、皮肉がすぎるよ。
どうやったらこう書けるんだ。
直後のユーリの“共感”にも繋がるが、どちらを向いても絶望。我々は進化の源を待っているのか?それとも、技術革新により、進化の源を創造する、掴みに行っているのか?
私の身体に起きてるバグ、進化の源の影響で悩まされているのは、なぜなのか?どうして、どうして私を赦してくれないのか。なぜ私なのか。私じゃなければいけないのだろうか。
我々は、何を目指しているのか。
目指した先が絶望であるとわかっているのに。
こんなこと、遥か昔から想像できていただろうに。
わかっていたのに。
生命の定義
チトが言う。
“生命“って終わりがあるってこと
チト「少女終末旅行」
なんじゃないかな。
あの行動後で、この言葉。そうだよな。終わりのある希望。絶望が希望に変わること。
これは終わり。
終わりがあるから希望がある。
いや、終わりがあると言うことを認知することで、希望が生まれる。
永遠がないという希望。終わりという優しさ。
そう。
また同時に、自律機械からの言葉。この層にいた人々もいつしかいなくなった。この一言は今後とても大切になってくる。
まだ、どこかにいるのかもしれない。ここにはいないだけで、どこかにはいるかもしれない。これを希望ととるか、絶望と取るのか。
時間と制約
初めて時計を見た彼女等。
時計の目的に、一言嫌がるユーリ。
私たちも、時計の刺す時刻に追われる日々。
彼女等は“食料”という時間の制約に縛れている。
我々は、何の制約に縛られている?
他人の目線?相対的な?自己満足?エゴ?プライド?
考えるほど、わからなくなる。
ぬことの邂逅
ぬこ。かわいい。
うちのいぬの方がかわいい。
出逢って、チトが連れていく際の言葉。
色々なくなっていくばっかだし・・・
たまには増やしてみるのも
チト「少女終末旅行」
いいかなって・・・
この言葉。
この作品を私は、2つの言葉で表した。その一つである、終活。人生の終わりのための活動。チトは、無意識に終わりを悟っていることが、無意識に手放していく有様を示している。
その中で、ぬこと出逢い、それと反する思いで、拾う。
増える。
生への執着か。
生への希望か。
生への未来を描いたか。
彼女は生きたいと願う。
その後の、チトとユーリのやり取り。
文化の違い。考え方の違い。わからないものは、怖い。この感情。
この思いで、争いが起こる。
今でも、昔からも、何千年前からそう。
わからないものは、怖い。
知ろうともしない。
昔から。
知らない記憶と写真
カメラの映像の記録を見るシーン。
全くもって、言及されないが、カナザワとともにいた女性。生き別れてしまったのか。
過去のことを知ることで、過去の人々が暮らしていたことを知ることができる。そして寂しさが紛れる。
これは気休めなのかもしれない。ただ、彼女等にはその気休めさえ、とても貴重なものである。
地球のおわり
さて、ようやく半分くらい。
ぬこの仲間、傘のおばけのようなモノに囚われたユーリ。懸命に助けに行くチト。チトの愛が見受けられる。涙が出る。
彼等は言った。
我々は情的に不安定な物質を取り込み、体内で分解して場的な状態に安定させる。
この処理が終わったとき、地球は生命の永い営みを終えて、再び眠りにつくだろう。
そのとき、我々も眠る。
ぬこの仲間「少女終末旅行」
その後、チトの「この都市には人類はいないのか」という問いに対し、こう綴る。
我々は最上層以外ほとんどの場所を
観測しているが、現在生きている人間は
ぬこの仲間「少女終末旅行」
君たち二人しか知らない
その後の、チトの表情。ポップに描かれているが、絶望。絶望。終わり。終焉。
ユーリの、「お前はいいな、仲間がいて。」という言葉にも含まれた、絶望。
終わりの歌を背景に、絶望がより明確に、緩やかに確実に、かなり確実に、決定的になっていく。
繋ぎ合った手も、いつかは解けてしまう。
絶望。終わり。
筆者の後書きのように、“マクロすぎる視点は、人をあまり幸せにしないかもしれない”
逆に、ミクロはどうだろうか。マイノリティの視点。これも、幸せになるだろうか。
平等、公平とはなんなのだろうか。
幸せな人には気づかない。
絵を使った、感情の投影
絵を描く理由、文字を綴る理由、言葉を遺す理由、感情の共有。これは世代を超えて、時を超えて、残る。本意は伝わらなくとも。表層だけの意図を汲み取ることしかできなくとも。
休憩③
tkmizさんすき。
死後の世界
わからないからこそ、想像する。想像して、像や宗教などを作り、偶像化したものを崇拝する。それで精神の安定化を図る。
そこにもういない人たちと
繋がる方法はあるんだと思う。絵や写真もそうだけど。
チト「少女終末旅行」
唯一、そこにもういない人たちと繋がることができる方法。それは、そこにもういない人たちが遺したモノと繋がること。上述したように、表層でしか理解できなくとも、本質を理解できなくとも、繋がることはできる。
遺す人は、未来の人たちと繋がりたいと思って遺すのだろうか。
私は誰かと繋がりたいのだろうか。
人工知能
ここでの、出逢いと別れが、途方もなく悲しい。
自由とはそんなにいいものでもないですよ。
どこにでも行ける自由を得て知るのは、
本当に行きたい場所が、
どこにもないという事実。
人工知能「少女終末旅行」
自由の本質が詰め込まれている。
自由を求める?何を求める?何のための生命活動?
忘却のない永遠がどのようなものか
わかりますか。無限の記憶の累積と
無限の喪失の累積
それはすべての思考が
不可解の向こうへと落ちてゆく永遠の不眠症です。
私は、失敗作の神様です。
人工知能「少女終末旅行」
苦しい。書けない。
人間と機械、双方の価値を折衝し、安定して導くことが使命。
その役目を終え、いや終えることない永遠に苛まれる。陥れられたと言っても良いのかも。
その渦中に取り込まれ、抜け出すこともできない。
彼等は自由も永遠も手に入れている。それと同時に、絶望が付きまとう。離れてくれない。
終わりが、ないということ。
おじいさんの言葉
過去編。あまり語られないが。
ちょっと辛くなってきました。私が。
人間は忘れる生き物だが…
そのために知識の
積み重ねがあると言うのに。早く行きなさい。
…それでも繰り返してしまうんだろうか。
おじいさん「少女終末旅行」
このあと、テロのような、争いが始まるようなシーンが続く。
先見の明のように、何かを察した様子。
過去から何も学ばない人類。繰り返してしまう過ち。
同時に、チトとユーリは、過去を思い返すことに、“懐かしさ”を感じている。
私たちも、過去を思い返し、懐かしむ。それは私たちにとって良い過去?苦しい過去?
思い返す行為は何を意味するのか。自分で自分を慰めているのか。
筆者の後書きもここで触れる。
昔の夢を見るのは好きです。
もう二度と会わない人たちに会ったり、
幼いままの自分が父や母と話していたり…そして目が覚めると悲しくなる。
その悲しさは、それらを失ったことに対する悲しさなのか、
あるいは失ったことすら忘れていたことを
思い出すからなのか。人間は不変や永遠に憧れる一方で
忘れることに癒されていると思う。
tkmiz「少女終末旅行 5巻 あとがき」
忘れることに癒されている。
この行為は、覚えている・覚えていた・体験した・得た・失ったことが前提である。
となると、我々が何かを体験する行為自体、自分自身を救う行為に繋がっているのかもしれない。
何かを感じること、思うこと、後悔すること、達成すること、全てが癒しに繋がるのか。
ロケットと好奇心
宇宙へ行った形跡が見られる。ロケットで。
チトも言うように、それは単純な好奇心。
どこかで述べたように、“わからないものは怖い”
それでも、好奇心に勝てずに、知りたいという思いだけに駆られて、ここからずっと遠くに離れた場所へ行きたいと思う。それだけ。怖さより、ワクワクが勝つ。それだけ。
言葉と宇宙(休憩③)
もし人類が今まで記した言葉を、
全部集めたら、宇宙の星の数より多くなるんじゃないか。
まるで、言葉の宇宙。
チト「少女終末旅行」
言葉を繋げて、未来へ届く。その長い長い連なりの最後に、私たちがいる。
ケッテンクラートとの別れ。終活のはじまり。
ケッテンクラートをお風呂代わりにする。それはもう使い物にならないから。
あっちを直しても、こっちが壊れる。寿命。
人間、生命のように、終わりがある。
いつか、それと向き合わなければいけない。
終わり。
どうにもならない叫びをあげ、それでも絶望に抗う。
持てるものだけ、持っていこう
チト「少女終末旅行」
現代の人間も同様に、持っているものが多すぎる。あまりにも。
両手で抱えきれないもの。
背負いきれないもの。
それらを置いて行く覚悟。手放す覚悟。棄ててしまう覚悟。
この、長い旅を共にしたケッテンクラートと決別する覚悟。
せめて、キーだけ持っていくチト。
終活は佳境を迎えていく。
終活の“終わり”
銃を手放すユーリ。
使わないから捨てる?重いから、手間になったから投げ捨てる?これからの未来に必要性を感じなくなったから置いていく?
彼女は言う。置いていくのはかわいそうだから、投げ捨てると。
本を手放すチト。
こんなに持ったまま
歩けない
チト「少女終末旅行」
歩けない。抱えた荷物が多すぎる。しかたがない。あれだけ執着した本を手放す。
終わりに、近づいていく。
歩く
燃やす
眠る
歩く
燃やす
眠る
その繰り返し。
日記を燃やす。
必要なのは、中身ではない。それを燃やして
温めた水。
忘れるのが怖い。その記憶を文字で日記に記録する。記憶に穴が開くことが怖い。
それさえも手放すチト。記憶よりも、今を生きること。彼女はそれを選ぶ。
生きることを望む。
暗闇で混ざり合う二人
まっくらな階段をただ、登り続ける二人。
最上階に何があるのかわからないまま、ただ登り続ける。
登り続ける。何があるのか。
闇の世界で、繋いだ手と手が混ざり合う。
二人は言う。
死ぬのは怖い。
二人は何もかも失う。
大切だった本も、手入れを怠らなかった銃も、旅の相棒であるケッテンクラートも。
生きることは、暗闇からきて、暗闇に帰ることなのか。
世界すべては、私たちそのもの。
最上層
そこにあるのは石だけ。
旅は終わりを告げる。
彼女等は何も持っていない。祝福の水も、一服の食料も。ヘルメットも必要ない。
最上層を目指した。
すべてを手放し、ここまで来た。
なにもなかった。
あるのは石だけ。
その判断が正しかったのか、二人にはわからない。
唯一、救いの言葉。
生きるのは最高だったよね
ユーリ「少女終末旅行」
何もかも、わからない。
引き返すべきであったのか。
平坦な道のりで生きていく術もあった。
それでも彼女等は上を目指した。
どうして二人しかいない世界なのか、それは誰にもわからない。
それでも、生きるのは最高だった。
と、ユーリは言う。
見て触って感じられることが世界のすべて。
彼女等はこれからどうするのか。
最後のひとかけらの食事をとり、少し寝て、それから考える。
彼女等はあの極限の状況でも、生きる喜びが消え去ってしまわないと、信じていた。
私も、そう信じたい。
結論
私はこの物語が他人事のように思えない。
牧歌的に見える作品であるように見えて、風刺のように我々の生活を刺してくる。
私たちの、いや私の生活でも、彼女等と同じように絶望に陥ったことがある。
絶望。八方塞がりのような。救いのない絶望。半分、いや今でも陥っている。救いようのない。
彼女等も同様に、助かる手立てがない。
ただ、私は、結論。彼女等は、引き返したのだと考える。
これは、アニメ版のEDも含めてだが、絶望の末、階段を下がっていったのだと考える。
ラストページの麦畑。また、透けて見える三角のゲート。これも何かを示唆しているように見えるが、私は、彼女等は引き返し、絶望と再び向き合うことを選んだのだと考える。
むしろ、選んでいて欲しい。あの最上層で、絶命したと思いたくないから。
絶望の中で希望を見出し、改めて絶望しかないと悟った彼女等。
救いのない世界の中で、生きる希望も全て失われた。
大切だった本も、ケッテンクラートも、全て失われた。
何も手の中に残っていない。それでも、生きる希望だけは失わなかった。失ってほしくない。
ただ、終わりを迎えるだけ、という未来を期待したくない。
私のエゴで、物語の中のチトとユーリは生きている。あの絶望の道を、改めて引き返し、生きている。
そう、信じる。
終わりがあるということ
作者の後書きを交えて。
人類は生命の定義がまだうまくできていない。
つまり、終わりも定義できていない。
死後の世界も、我々が帰結する最後の瞬間さえも。死も。
生への定義も曖昧である。
なんのために生きるのか。定義も目的もない。
それでも、今日も私たちは息をする。
瞬きをする。水を飲む。顔を洗う。呼吸をする。食べる。生きる。
生きる。
作品はこちらから。