優しい人になりたかった。
今でも変わっていませんが。
ただ、優しくまじめに、誠実に生きた結果が、鬱病でした
良くも悪くも、人によって、“優しさ”というものは時に、他人の都合の良さに、どこかで入れ替わるんでしょう。
残念ですね。
それでも、私は優しくあり続けたいと思って、これまで生きてきました。
また幸いなことに、心優しい友人らもいます。己の報酬に拘らず、心許せる友人もいます。
ただ、人間的な生活を送っていく上で、そういった善良な人とだけ関わることはむつかしいです。
そういった夢物語を期待していたわけではありません。
ただ自分が選んだ環境は、その環境くらいは、その環境でなければどこが、などと言った要素から、知らずに思い込んでいたことも事実です。
そんな経験から、いや学生時代でも多少は感じておりましたが、そのような経緯で、以前書いたような、透明人間性(詳しくはこちら)を改めて感じるきっかけとなりました。
本投稿で何を書きたいかというと、これまでの文章とまた少し矛盾を孕むのですが。
“優しさ”を希求して、目指していたのに、いざ“優しさ”に触れると拒絶してしまうこともあったからです。
ある日、起き上がれなくなった時、とても親切な、暖かい言葉をくださった人たちがいました。
今でも、きっと死ぬまでですが、そのご恩は忘れないことでしょう。
ただ、当時感じていた思いを率直に表現すると、
こんな自分に割いてもらう時間が苦しい、気を遣わせてしまうこと自体の無駄感、言葉を選んでくれるその行為に申し訳ない思いを抱く、それに呼応する返答やお礼ができない、自分と関わる時間とエネルギーを浪費していることに対するもどかしさ、そして、自己価値の否定、笑えなくなる、関わらないでいてくれた方がお互いに幸せなのではないか、生への否定、などと考えることもありました。
ただ、言葉の裏を考えてしまう、といったことは思いませんでした。
状況のせいなのか、いやはや人間の持つ性格の一面なのか、それを取り巻く環境のせいなのか。
要は、優しく包み込む綿毛でさえも、けがをしてしまうこともありうるのです。
そうなってしまうと、他者との交流自体が、当人にとっては苦しいものに陥ります。
暁には、当人の生活は、ただ浪費するだけです。特に、近年ではインターネットコンテンツが豊富です。浪費するだけです。一方的に、自らを傷つけない、何の生産性のないコンテンツを浪費する生活です。
今では、充分に恢復していると思っておりましたが、本日、この思いに駆られてしまった。
身近な人の言葉に、それも意図とは別に、受け取ってしまうことがあった。
理屈も法律も通さない。
誰の声も届かない。
友達も恋人も入れない。
そんな、独りだけの世界。
考えすぎでもあるんだろうなあ、でも自分も未熟なので、そうとしか受け取ることができないんだろうな。
少しでもそんな思いをしない人がいない、世の中になってほしい。
自分だけでいいなんていうと、それは悲劇のヒロインですが、そう言った思いを持つ人が少なくなってほしい。心から。
だから、今は自分が他者へ還元できることをしたい。優しさを求める人へ、辛く苦しい環境に、私が右ストレートをお見舞いします。
支離滅裂ですが、以上。優しい歌を唄いたい。
この文章が心の荒れ具合を表現しているとは、思いたくない。