HOMEBASE

個人的に好きな記事
「HOMEBASE」by 電気グルーヴ

1番 センター 身長2メートル
2番 キャッチャー 1年目方が30貫
3番 サード 長嶋茂
4番 レフト 肉しか食べられない
5番 ファースト ドミニカ帰国子女
6番 ピッチャー 通学チャリンコ6時間
7番 ライト 親父が戦場カメラマン
8番9番 セカンドショート
似てない双生児

電気グルーヴ「HOMEBASE」


野球がだいすきです。

ちょっとした寄り道

なんだか、ようやっと、このHPの運用方法が安定してきた気がします。

「好きなことをしよう!」

という言葉は、私好きではありません。好きなことがわからないからです。

仕事を辞めてからよく言われた、苦しい言葉でもあります。

好きなことをやって苦しんでいる人はどうすればよいのでしょうか。


ただ。

好きなことを書く。

というのは、とてもしっくりきます。


その日、その時、その後の、気分や想いを打ち込んでいくこと。とても、穏やかな気持ちで、無心にタイプできます。今現在は、もっぱらiPadを使用しています。これまで、完全にYouTube見る金属製の板と化していましたから・・・
それに比べ、今はHPいじりと、あとは絵描き、また授業に・・・

縄文人にオノ持たせたみたいやなぁ。

猿と犬に、グローブとバットを
持たせた、みたいやなぁ。

野球との出逢い

私が野球と出会ったのは、生まれ育った地域に球団があったから、これがルーツでしょう。

人によりけりでしょうが、私は地元が大好きです。

地元の友達は、ほぼいませんが。



あかん、逸れる。

私の幼少期は、この地元球団、(当時)非常に強“かった”んです。

今は弱いみたいな言い方になっちゃうのは、ご許しを・・・

そんなコンヤで、つまり幼少期からテレビをつければやっている、と。

あんなヘンヤで、地元球団は最強であったと。

あっちらホッチラ、地元球団が勝利すると、スーパーで安売りになり、皆の機嫌が良くなると。

それは好きになるでしょう。

また、憧れの選手もいました。

でも、幼少期から小学校卒業までは、それくらいの存在でした。

野球を“する側”へ

野球について、語っているだけなのに、こんな見出しつけてカッコよくしていいものだろうか。

それでも、運用方法が、落ち着いてきたと序盤に申し上げたので、まあよしとしよう。

さて。

私には兄がいます。

兄は、小学生から、いわゆる野球クラブへ入団しておりまして、低い身長を活かし、二遊間を守っていたそう。私は、どちらかというと当時(今もか…)は家にいることが多かったです。

また、同時に兄が、東京に在籍している、某球団、オレンジ色の、スターを輩出する、長⚪︎嶋茂雄選手や、王貞⚪︎治選手がいたとされる、あの球団を応援するようになってから、少し仲違いをしました。



私の血は、“青色”です。
今ここで、腕を切って見せてあげようか。

中日・ガルシア「僕にもドラゴンズブルーの血が流れている。何ならここで腕を切ってみようか」 : なんじぇいスタジアム@なんJまとめ
転載元: 風吹けば名無し 2018/10/14(日) 12:01:32.14 ID:9+jxTxdt0 中日のキューバ人左腕、オネルキ・ガルシア投手(29)が14日、自宅を構える米アリゾナ州に出発した。名古屋駅で取材に応じ、 再来

ちなみに、この選手は、この発言のあと、縦縞のトラのいるチームへ行きました。

あの発言はなんなんやっったんや・・・・・


ということで。話を戻して。

兄の影響もあり、私は当時は空手をやっておりまして、次第に野球がより、身近になってきます。

そして、迎える中学生時代。

ここから、始まった新たな幕開けとなるベースボールライフ。

へたっぴ野球部員 それは猿

そうして、私は野球部へ入部しました。

もちろん、遊び程度ではプレーしたことはありますが、きちんとルールに則ってプレーすることは初めて。

グローブを買ってもらうところから、あのオレンジのグローブ、好きだったなぁ。

とにかく、私は野球部へ入部しました。

当時、私が通っていた中学校は、それはもう・・・遠くて・・・

家から、学校までおおよそ10km弱。ケッタ、いやもとい、自転車・チャリンコで1時間ほど。

朝練なんてあろう時は、何時だっけ、5:30頃に出てましたね。冬場は寒かった・・・

ということで、新米野球部、爆誕。

下手くそちゃんですので、ボール拾い。これは、致し方ねぇよなぁ?

それでもコツコツコツ練習はしておりました。

素振り、ノック、うーん、走り込み、など。。。

そうして、いつしか二年生となりました。

世代交代 我々の出番

二年生になりました。

まだ、三年生はいます。

ここは、パッと飛ばしちゃいまししょうか。

とやかく、あっけなく三年生は最後の大会にて、敗退&引退。

私の出番なんてありません。

ただ、ここで、主役が我々の代となるのです。



そうして、正義感の強かった私は、

キャプテン

へと、立候補するのです。

初めての試合と学校事情

学校事情

まず、簡単に学校事情をかいつまんで説明いたします。

私は、一年間、上述した遠方の中学校へケッタ、自転車にて通っていました。

が、色々とクレームがあったそう。坂も多く、登下校で事故を起こす生徒がいる、などなど

ということで、新たな学校が新設されたんです!

ラッキー!

ということで、分校。

一年間共に闘った(ボール拾い)仲間ともお別れ。

17、8人いました仲間もちょうど半分ほどで、分校。

その分校先にて、私は、キャプテンへと成り上がりました。

ということですわ。

初めての闘い

モタモタしてる間に、試合が組まれました。

そうです、初陣です。

ただ、先述しましたように、そもそもベンチ入りメンバーさえ、揃っていません。

ですので、入部したばかりの一年生も入り、試合を組む。

そんなでした。



初陣。

初の戦闘。

相手は、まさかの分校の相手。

そうつまり、一年前まで同じグラウンドで汗水垂らし、熾烈な争いをしていた(ボール拾い)元戦友との戦いでした。

私は。




ベンチでした。




キャプテンベンチ。



Fin.








いや、おわりませんよ!?!?

初陣結果

負けました。

以上です。

Fin.







残酷なほどに、打たれました。

というより、ストライクが入らない。

ピッチャーを務めたのは、前どこかの記事で書いた“当時”親友だったD氏。

よければどうぞ

なんていうんでしょう、野球を知っている方であればわかるかと思いますが、

藤浪晋太郎選手

のようです。

160km/h超えのボールをポコポコあてるみたいな。


いやぁ、ベンチにいる私は何もできませんがね笑





できませんがね笑







何もできません( ; _ ; )

下積み時代と初スタメン

よくわからん下積み

まぁ、それでもなんとなく、今考えるとどんなモチベやったんだろう・・・

とにかく、一生懸命練習しました。

私の欠点と言いますか、苦手な点を挙げます。

  1. 打てない
  2. 守れない
  3. 走れない

という感じです。


Fin.






今日、終わりすぎだろ。

まず、①打てない

これは、打てません。ボール怖いし、何より当時、目が悪かった。視力矯正でメガネをしました。

次、②守れない

これは、フライが取れませんでした。落下位置が、イマイチ掴めない。難しいんよ〜

だけど!送球だけは自信がありました。いい球、放れるんですよ私。

最後、③走れない

実は、意外と足はありました。

ですが、打てないので、走ることすらないと。


私は、試合は基本、代打出場でした。

また、中学校の練習試合は基本的に、“2試合”行います。

いわゆる、1試合目は、一軍戦。

2試合目は、二軍戦。

基本、私は、1試合目の代打、2試合目のスタメン、といったように、まぁ、ベンチマンでしたわ。

ここだけの話。

野球部は、試合前にキャプテンが、審判と共に相手チームのキャプテン同士挨拶を行います。

そのあと、互いにスターティングメンバー表を交換します。

そのあとの・・・

キャプテンがベンチと相手が知ったときの顔よ・・・

「あ、キャプテン、怪我してるんだ」

みたいなパターンもあるんです。怪我でベンチ。

でも、ピンピンしてますから、なんとプライドが傷ついたこと・・・

それでも、折れずに、私は頑張っていましたよ。

初スタメン

次第に、上達してきました。

手前味噌ですが、まぁ戦力にはなってきました。

特に、守備面。割と守って、投げられる。そんな風に進化しました👍

そうして、ついに、初スタメン・・・!

きたぜ!!!!

ということで、試合は始まっていく。

私は、基本。



バットを振りません


むしろ。



バットを振る勇気がありませんでした



しかし、中学野球。みな、コントロールが良いわけではありません。

バッターボックスにて、突っ立っているだけで、四球(フォアボール)にて、出塁できます。

打率は0でしたが、出塁率は5割ほど誇っていました。

しかも、結構盗塁決めてました。

なんちゅー選手。

いや、なんちゅーキャプテン・・・

平成のイチ⚪︎ロー

いっとき、本当に調子が良かった時代がありました。

なんで私、中学時代のことを自慢してんだろう。

勇気を出して、スイングすることを覚えると、意外とバットに当たることがわかりました。

あの試合、覚えています。

基本、試合には負けるのですが、いやあの試合も負けたな。

ですが、私の戦績。

4打席2安打 1四球

つまり、3打数2安打

打率で言いますと、0.667

なんて、巧打者・・・

一本目はセンター前ヒット

二本目はレフト前、ポテンヒット

そうして、1盗塁決めてます。

あぁ、あの時が一番輝いていた。

試合は負けましたが。

勝負には勝った、というワケでしょうか!?

順調に、野球が好きになっていきます。見る方も、する方も、楽しいと思えるようになっていきました。

初勝利とそのウラ側

初勝利のウラ側

二年生。実は一度も勝利することなく終えました。

三年生、結論として、2回のみ勝ち、私は中学野球部を引退しました。

その、初勝利の話をします。

先ほど申し上げたように、中学野球は基本2試合行います。

1試合目、ある部員の怠惰な行動で、監督を怒らせてしまいました。

その結果、監督は2試合目前にこう言いました。

「勝手にオマエら試合やれ!」

と。

どうしようもなく、我々チームはあたふたします。

しかも、面白いことに、こういう時にチームは団結、するんですねぇ。

チーム事情

実はこのとき、先ほども名前が出ていた、D氏。

“当時”親友であったD氏。

彼と、喧嘩をしたのです。彼は、結構根に持つタイプでして、プライベートで喧嘩をし、部活内でも波及していました。

これまで、ずっとキャッチボール相手だったのに対し、一言も口を交わさない。

まぁ、ありがちですね。

そして、初めは四番ピッチャーを務めていたD氏。

次第に調子が落ち始め、ピッチャーを二年生の後輩に譲り、外野手へと回る次第。

バッティングも、うまく歯車が噛み合わない。

そんな状況でした。

ナゾの初勝利

そして、閑話休題。監督に叱られた後の話です。

キャプテンであった私は、監督代理。

合間の休憩時間で、オーダーを組み、サインも独自で開発。

そして、猿と犬仕様のチームで、出陣。

私の方針は、

“私以外の選手を全員出す”

これを守り、試合に臨みました。

私は、D氏を四番ピッチャーとして、出場させました。

私は監督として、指揮を執る。


試合は想定より、良い展開。D氏は、想定外の私からの投手指名で、怒りの投球(?)なのか、バンバン豪速球を投げ込みます。

なすすべない、敵チーム。

そして、打線が繋がる。

守りも気合が入る。

いや違うか、腹たつ監督を見返すためか。


二年生、後輩に、一人足に障がいを持った選手がいました。

うまく歩けない、足を引きずってしまう。

でも一生懸命に練習をしている。

誰よりも、バットを振っている。

誰よりも、辛い顔をして走る。

一度も、試合に出たことがない。K氏。

私は、ここ一番、という場面で彼を代打に送る。

追い込まれ、三振かと思った矢先。

大きなフライ、打球。

漫画のように皆、沸いた。

結果は、大きな、大きなレフトフライ。

それでも、彼の最高の笑顔は忘れられない。



結果として、4-1で勝ちました。

勝ったんです。

勝っちゃった。

あの、監督の、マジ微妙な顔。

忘れられへん。

エンライ顔してた。

「おぉふ・・・」みたいなリアクション…私でもそうなるわ。

部員からも、猿と犬監督してくれ!なんて声も上がりました、嬉しい。

采配センス、ありか?

そこで、D氏とも仲直りすることができました。

挫折

順調に練習を重ねていた中。少しずつ不調に陥ります。

またしても、スタメンを取られます。

私は、外野を守っていました。

が、後輩に陸上部からきた選手に取られてしまいます。

少しずつ、モチベーションが落ちてしまいます。


チームの士気も下がっていたとき、監督がこう言い放ちます。

「次の試合は、やる気のあるやつを出す」

と。

悔しい思いを抱えていた私は、必死に練習します。

声も出しました。

士気を高めることに、努め続けました。





それでも、スタメンから外れました。

怒りと“忘れる”ということ

今でも覚えているということは、許していないということでしょうね。

恥ずかしい話ですが、試合前日の練習にて、私が外れたスタメンを伝えられた際。

私は泣きながら帰りました。

そして、監督、学校へ電話をかけ、退部する旨を伝えました。

今でこそわかりますが、監督、相当焦っただろうなぁ。

だから私、学校嫌いなんです。



無力な私は、なんて声をかけられのか覚えておりませんが、とにかく言いくるめられ、退部は引き止められました。

恨んではいません。

私も、そこまで小さな人間ではございません。

でも、覚えています。

泣いて、初めてのあそこまでの憤り。

投げ捨てて割ってしまった鏡でさえ覚えている。

忘れるということは、許すことだと私は信じています。

忘れられないということは、許していないんだと思います。

綺麗事で、済まされないこと。

十年ほど前ですが、15歳の私は、きっと命をかけていたんでしょう。

最後の試合と引退

あんまり、こういうと、ちょっと嫌ですが。

その一件から、スタメンになりました。

そりゃそうよな、繰り返しですが、今でこそ監督の焦る気持ちはわかる。でも、だからといって、あの行動は許されない。


最後の試合に向けて、練習を重ねる。

バットを振る。

跳ね返るボールを追う。

ランニングをサボる。

なんて、結構楽しい思い出、ありますね。

そして迎える最終試合。

結論、一回戦負けです。

当時、有名だった、裏で呼んでいた
「ドラえもん」という選手がいるチームと当たりました。

ほんと、中学三年生とは思えない、ガタイ。ばかばかホームラン打っているという噂。

結果として、4-0で負けました。

ドラえもんには打たれませんでした。よかた。

そして、ここで一個胸を張れることがあります。

最後の試合。

相手投手は120km/h超えの球を放ってきました。

唯一、私だけ、安打を放ちました。

ショートの奥の方へ、レフトへ抜けるかと思いましたが、いわゆる内野安打。

打線も繋がることなく、負けましたが。

そんなコンヤで、私の中学野球部時代に、幕を閉じました。

きれいごと

それでも、今思い返すと、野球部は楽しかった。

当時のメンバーとは、もう二度と会わないけれど。

それでも、私のまだ短い人生の中で、記憶には強く残っている。

初めてヒットを放ち、一塁上でガッツポーズをしたこと。素振りをサボってバットで殴られたこと。打撃成績が上がり、五番を任されたときのなんともいえぬ嬉しさを感じたこと。初盗塁のヘッドスライディングでズボンの中まで砂が入ってしまったこと。祖母が見にきてくれた試合で、ライトフライを思い切りエラーして、死にたい気持ちになったこと。


赤いユニフォームで、グラウンドに立ったこと。

背番号10番を背負って、野球をしたこと。


それは、きっと大切な記憶。

きれいごとだけどね。

憧れの選手

私は、右投げ右打ちでした。

ですが、小学生時代、ある選手に出逢い、左打ちになりました。

その選手は、立浪和義選手です。

立浪和義 監督
https://dragons.jp/teamdata/coach/coach.php?name=立浪%20和義&num=73 より
中日ドラゴンズ オフィシャルウェブサイト - 監督・コーチのプロフィール 立浪%20和義
監督・コーチのプロフィール 立浪%20和義


立浪選手に憧れ、左打ちへ。

立浪選手に憧れ、野球をすることに。

立浪選手に憧れ、野球が人生に。


そんな立浪選手も、もう監督として三年目。

今年のドラゴンズの調子は良い感じです。

色々と言われていますが、それでも私の背中を押してくれたのは、立浪選手と、選手を教えてくれた父親。

感謝しています。

戯言

野球について、少し語りました。

もう一つ、忘れられない思い出があります。

あまり友人がいなかった、小学校時代。

中日ドラゴンズ 山本昌選手 がプロデュースした、変化球を投げることができるボール。

これを使って、当時、もう70歳弱の祖母とキャッチボールをした記憶があります。

両手を怪我している、祖母と、てんてこまいになりながら、あっちらこっちら走り回ったキャッチボール。

これも、忘れられない思い出。

たった、一つのスポーツですが、私にとってはとても大事な野球。

これからも、愛して、楽しみ、野球に生きる。

情けなく、へたっぴな野球少年の、後日譚です。

そんな、猿と犬でした。

以上。今日の野球も楽しみだなぁ。

タイトルとURLをコピーしました